2017年1月8日日曜日

三江線に乗る


年明けの三連休に島根県の江津から広島県の三次に向かう列車に乗った。
三江線という来年の3月で廃線になる路線を乗りに来たのだ。
終点の三次駅まで行ける列車は1日二本、一本目が始発の午前6時江津駅発の二両連結の列車だった。

私が午前5時半頃乗り込むと、既に四人掛けのボックス席は全て取られていた。
どう見ても鉄道オタクのオッサン達が十人ほど、席に荷物を置いて一眼レフを片手に写真を撮り回っている。
ロングシートに座って発車を待っている間も、次々に判で押したような歳をくったオタク達が乗り込んでくる。
服装の基本は、アウトドアメーカーのセミロングのジャケットにジーンズ、靴は100%スニーカーだ。
よく考えたら私の格好もほぼ同じだった。

何だかんだで席はほぼ埋まった状態で出発した。沿線住人と思われる乗客は1割もいない。ほぼ婆さんだ。

出発してもまだ明けない暗闇の道中である。
ただ、景色は見れなくても、車内はある意味なかなか見れないような面子になっていたので、飽きなかった。

嬉々として走行中の列車内をカメラ片手に忙しなく歩き回る50代の男、相席のボックス席の窓際にテディベアを置く残念なカップル、後部運転席横の車窓に食い付いて離れない爺。何故かずっとメモ用紙に俳句を書き続ける男。

このある意味修羅達を乗せた列車は三時間後、終点の三次駅に到着する。

1時間半ほど経過すると、やっと小雨の朝靄の中に沿線の家々が見えてきた。
明るくなるにつれこの路線の良さがハッキリとしてきた。

江の川を中心に石見地方の赤い瓦の家々が連なって建っている。
それほど広くない谷に沿ってゆっくりとした速度で走っていく。
観光路線として魅力に溢れていると言っていい路線で、乗客が少ないので廃線にするとは、JRの取り組み不足ではないのかと思う。
説明を読めば、この路線は昭和50年までは途中が開通しておらず、三次から途中までを三江南線、江津から途中までを三江北線として運用されていたそうである。恐らく長い時間をかけ、困難を乗り越えて開通した路線なのだろう。
それが全線開通から僅か40年余りで全廃止とは、寂しい限りである。
軌道を行く列車があって初めて完成する景色もあるのに、それが無くなるのである。
確かに沿線の町村は過疎化が進んでいる。この先人口が増えることも無いだろう。しかし、今廃線することは、高齢者の不便を更に助長することになるのではないか。
廃線は地方の呼吸を止めるのに等しい、と考えるのは余所者の傲慢だろうか。
この川筋に列車の警笛が響かない時が、永遠に続くことを住民はどう思っているのだろうか。

秘境駅である長谷駅で三人降りた。彼等はまごう事なき鉄道オタクであろう。
駅は川の瀞に面していて、成る程秘境であると唸らされる雰囲気であった。

三次駅に着いて、そのまま折り返しの列車に乗る。
立っている乗客もいるくらい盛況だ。
廃線が決まると乗客が増えるのを、もっと前から乗ってくれたら、廃線にならなかったのに、と言う人がいるが、それは無責任な言葉と言うべきだろう。
この三江線にいつか乗りたいと思っている全国の鉄道ファンは多いはずである。
しかし、乗るために江津駅や三次駅に来るまでが既に不便過ぎるのだ。また、全線を走る列車が1日で片側2、3本しかないというのも致命的だ。
これは乗り鉄的には、三江線を全線乗るためには一泊することが必要だということなのだ。これはかなり敷居が高いと言わねばならない。要は時間と費用が余計にかかると言うことなのだ。
だからいつか都合がつけば行こうと考えている人がかなりいたはずである。
それが廃線によって前倒しで来るようになり、休みの日だけ盛況な原因になっているのだ。

石見川本駅で江津行の接続待ちが1時間半あった。
昼飯のお好み焼きを食べて列車に戻ると、川本町の町長がハッピを着て列車に乗り込んできて、町のアピールをしていた。
二両連結の百人に充たない乗客にそこまでするのか、と少し驚いたが、それだけ周辺市町村にとっては切迫した状況なのだろう。

地域社会の消滅。
必然的に訪れる現象を前にして、私にはまだそれに対して気持ちの整理がつかないのだ。



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